野球界の枠にとどまらず、大きな存在になってほしい―。意外とも思える清宮の「21」には、そんな願いが込められているのだろう。退団する武田久が今季までつけ、日本ハムでも歴代のエース級が背負ってきた。日本の野手ではめったに見られないが、そんな常識は高校通算歴代最多111本塁打を放った規格外の男には関係ない。
米大リーグで「21」は特別な番号の一つだ。1972年、ニカラグア大地震の際に故郷・プエルトリコに救援物資を届けようとし、輸送機の墜落事故で亡くなった名外野手のロベルト・クレメンテ氏が背負っていた。首位打者を4度獲得し、通算3000安打を放った名外野手の「21」は伝説となり、パイレーツの永久欠番になっている。
7球団競合の清宮も、そのスピリットを少なからず持っている。16日の都内での仮契約後に行われた会見で「(球団から)『野球人としてだけでなく、社会人として世の中に貢献できるような人間になってほしい』と力強い言葉を頂きました。人として皆に目指されるようになりたい。その言葉は自分の中で心に響きました」と一社会人としての成長を誓っていた。
栗山監督にとっても重みのある番号だ。指揮官として尊敬する三原脩さんがプロ入り後、選手として最初につけた番号でもある。三原さんは巨人、西鉄、大洋など5球団を指揮。4度の日本一を達成し、晩年には日本ハムの球団社長も務めていた。「魔術師」と呼ばれる采配は、栗山監督の礎となっている。
早実の先輩で清宮が目指す868本塁打の世界記録を持つ巨人・王貞治(現ソフトバンク球団会長)の「1」や、ダルビッシュ有から大谷翔平に引き継がれた「11」も候補に挙がっていたとみられるが、その中から清宮にふさわしいものが選ばれた。24日に札幌市内で行われる新入団発表でお披露目される予定だ。「51」のイチロー、「55」の松井秀のように、清宮が「21」を自分のものにしていく。
◇日本ハムの背番号21 前身の東急時代には捕手の上林繁次郎がつけた例もある。東映時代の58年の土橋正幸以降は投手が背負う番号として定着し、日本ハムとなった1974年以降でも高橋直樹、西崎幸広、武田久ら全て投手が背負った。
◆クレメンテの21番 プエルトリコ出身のR・クレメンテは4度の首位打者で通算3000安打、打率も3割1分7厘。強肩で12度のゴールドグラブを受賞した外野手。現役ながら1972年の大みそかに、ニカラグア大地震の救援物資を積んだ輸送機が墜落。38歳の若さで亡くなった。メジャーでは彼の功績をたたえ、グラウンドの活躍だけでなく社会貢献に尽力した選手を毎年「ロベルト・クレメンテ賞」に選出している。そのため、中南米出身の選手は彼に憧れて同じ背番号をつける選手が多く通算609本塁打のS・ソーサや306本のR・シエラらが21番でプレーした。
◆三原 脩(みはら・おさむ)高松中―早大と名二塁手として活躍。1934年に巨人の前身・大日本東京野球倶楽部の一員として入団。内野手としてプロ野球スタートの36年から3年間、巨人の初代背番21でプレーした。戦後の48年に巨人の監督に就任し翌49年にチームを5年ぶりのリーグ優勝に導き、その後西鉄(現西武)で3年連続日本一、60年には前年最下位の大洋(現DeNA)を日本シリーズ優勝させるなど、“魔術師”と称された采配でファンを魅了。近鉄、ヤクルトの監督も歴任。監督通算1687勝は歴代2位。日本ハムでは球団社長も務めた。83年に野球殿堂入り。
(スポーツ報知)
いずれは1番だろう。
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