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【台北=西見由章】中国当局が民主化運動を武力弾圧した天安門事件から4日で36年。当時、学生たちが戦車にひき殺された現場を目の当たりにした呉仁華氏(68)は、いまだ謎が多い事件の実相を研究者として追究してきた。「中国が経済発展した後も専制体制の残虐性は変わっていない」。中国の政治状況への無関心が広がる台湾で、警鐘を鳴らし続けている。
■学生と一緒に事件に遭遇 1989年6月3日夜、自由と民主を求めて数万人の学生たちが座り込む北京・天安門広場に戒厳部隊が四方から迫っていた。中国政法大の教員だった呉氏は当時32歳。学生と一緒に現場にいたが、広場に接する長安街の西側で火の手が上がり、銃声も響いた。学生たちを守ろうと立ちはだかる市民に戒厳部隊が発砲を始めていた。 「すでに民衆にも犠牲が出ている。ここで退けば道義にもとる」。翌4日午前5時半ごろまで、呉氏を含む2、3千人が広場に残ったが、進入してきた兵士たちに棍棒や銃床で殴られ、混乱の中で撤退を開始。広場から西へ1キロ余り、長安街を各自の大学へと向かう学生たちに惨劇は起きた。 ■「撤退中の隊列」に突っ込んだ戦車 隊列の後方から車両番号「106」の戦車が突入してきた。轟音の中、逃げ惑う学生たち。隊列の前方にいた呉氏は高さ1・3メートルほどの鉄柵を乗り越えて歩道に逃れたが、間に合わなかった学生は戦車の下敷きとなったり、柵との間に挟まれたりして11人が命を落とした。「撤退中の隊列に戦車が突っ込んでくるとは誰も予想していなかった」 現場に残された遺体は悲惨だった。手足が潰れ、頭部の半分がなくなり、自転車と一緒に押し潰されてハンドルが胴体に突き刺さったままの者も。徒歩で大学に戻ると、戦車に殺された5人の亡きがらが講義棟に運び込まれていた。傍らでひざまずき「永遠に忘れない」と涙を流し誓った。 ■戦車と乗員を突き止める 呉氏の長く孤独な戦いが始まった。90年2月に広東省珠海からマカオに泳いで密航し、米国に亡命。母校の北京大や同大学院で専攻した文献学の知識を生かして天安門事件の資料を集め、著書などを通じて世界に発信してきた。「加害者」である戒厳部隊の実態を執念で調べ上げた。 インターネットの登場で資料収集は飛躍した。退役軍人のチャットグループなどを長年追い続け、106号の乗員を突き止めたときは「パソコンのキーボードに突っ伏して泣いた」。戦車は天津警備区所属だった。
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民主化運動を武力弾圧、今も何も変わらない。

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