午後8時15分。都議会本会議で舛添氏は自ら要請して最後のあいさつに臨んだ。「これ以上の都政の停滞は耐え難い。私が身を引くことが一番と考え、辞す決意をした」。わずか3分弱。反省の弁を述べる一方で「少子高齢化の流れの中で、保育施設の充実や地域包括システムの構築に取り組んだ」など、道半ばで終わった自身の成果を強調した。
午前、舛添氏本人ではなく代理人によって川井重勇都議会議長(69)に辞職願が提出された。15日付で「諸般の事情を鑑(かんが)み、退職したい。議会の承認を得たい」とワープロで書かれていた。
急転の辞職だった。前日、舛添氏は川井議長の辞職勧告を「応じられない」と突っぱね、議会運営委員会の理事会では子供が殺害予告を受けていると明かし、涙を拭いながら続投を懇願。参院選前に戦況悪化を嫌う自民党東京都連関係者は「『泣き落とし』ならぬ『泣き脅し』だった」。
かたくなな態度から、議会解散に打って出るのではと警戒する声も。川井議長らは午後10時ごろ庁舎を出た舛添氏を呼び戻し、進退について再度協議。この場で舛添氏は「辞める」と話していた。15日未明、都議会最大会派の自民党が不信任決議案の提出に践み切り、翻意できないよう外堀を埋めた。
与党関係者によると、舛添氏は14日深夜から15日未明にかけて関係者に辞意を伝えた。「公明党にやられた」。ある知人への電話では、集中審議で強硬に辞職を迫った公明党への不満を漏らしたという。
14年2月の都知事選では、都内で約80万票とされる公明党の支持母体の組織票が当選を後押しした。4年前に舛添氏は「歴史的使命は終わった」と自民党を離党。党内には「知事選で舛添を推すわけにはいかない」と反発する声があったが、最後は公明党に乗る形で推薦を決めた。最も近い身内だったはずの公明党からの、想定外の“反逆”だった。
もっとも、参院選を優先する政権内はすでに舛添氏を見限っていた。政府関係者によると、舛添氏と菅義偉官房長官は13日夜に電話で連絡。舛添氏は「リオ五輪までやらせてほしい」と訴えたが、菅氏は黙って聞くだけだったという。
舛添氏の在任期間は2年4か月。都知事は前々任の石原慎太郎氏、前任の猪瀬直樹氏に続き、3代続けて任期途中で交代。加えて2代続けて「政治のカネ」の問題で引導を渡された。都民から都庁に届いた批判の声は3万件超。2か月近く自身の問題で都政を停滞させたが、辞任会見の予定はない。「東京五輪の成功を祈っている」。最後の都議会でも五輪への未練をにじませながら、都民への謝罪は述べずに議場を去った。
(スポーツ報知)
都議会開催前は、自民党と公明党は、秋までの予定でいたのだろう。
本当に、何も謝罪しないで、去って行きやがった。
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