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2015年7月25日土曜日

日航ジャンボ機墜落事故 「頑張ったね」妹に 日航機事故から30年 川上慶子さんの兄思い語る


 一九八五年の日航ジャンボ機墜落事故で奇跡的に救出された川上慶子さん(42)の兄、川上千春さん(44)=島根県出雲市=が共同通信の取材に応じ「人並みでない環境に悩んだこともあった。今は兄妹とも家族を持ち幸せに暮らしている。妹には頑張ったねと伝えたい」と心境を語った。

 今年は事故から三十年の節目となることから取材を受けることを決めたという。慶子さんについて、家族を目の前で失ったことや当時の取材で受けた心の傷が「まだ癒えてない」とも述べた。

 日航機は八五年八月十二日夕に群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」に墜落。翌十三日、搭乗者の生存が絶望視される中で助け出された当時十二歳の慶子さんは日本中の注目を集めた。北海道旅行の帰りで、一緒だった父英治さん=当時(41)、母和子さん=同(39)、妹咲子さん=同(7つ)=が犠牲になった。千春さんは旅行に同行せず、自宅にいた。

 千春さんは三十年の歳月を「あっという間だった」と語り、中学二年だった事故直後を「『慶子を支え、亡くした家族の分まで頑張る』と気負っていた」と振り返った。

 世話に来る伯母たちに反発し、高校一年の冬ごろからは、両親のいないやり場のない気持ちで生活が荒れたと明かした。現在は妻、二人の息子、娘との五人暮らし。介護支援専門員として働いている。

 昨年十月、高齢になった伯母らを連れ御巣鷹の尾根に登った。慶子さんも誘ったが「気分が悪くなるから」と同行を断ったという。慶子さんは八五年の入院時、「(事故直後、英治さんと咲子さんは)生きていた」と証言していた。千春さんは「つらい思い出が残る場所だろうから」と思いやった。

 一方、千春さんによると、慶子さんは二〇〇二年、趣味のダイビングを通じて出会った男性と結婚。看護師の仕事を辞め、現在は息子二人と幼い娘の子育てに奮闘している。

 自身の経験も踏まえ、東日本大震災の遺児らに対しては「ふさぎ込まず、周りに打ち解けることが大事かもしれない」と助言を送った。    

■一問一答

 -間もなく事故から三十年となる。心境は。

 「あっという間。人並みでない環境に悩んだこともあったが今は家族ができて落ち着いた。兄妹とも家族を持ち幸せに暮らしている。三十年なので、最後に取材に応じようと思った」

 -どういったことに悩んだのか。

 「事故当時は『慶子を支え、亡くした家族の分まで頑張る』と気負っていた部分があった。一方で、両親のいないやり場のない気持ちを、世話をしてくれた伯母たちにぶつけてしまった。高校一年の冬ごろからは生活も荒れた」

 -慶子さんの近況は。

 「昨年十月、伯母らと御巣鷹の尾根に登った際に誘ったが、『気分が悪くなるから』と一緒に行かなかった。つらい思い出が残る場所だろうから仕方がない。心の傷はまだ癒えていないが、三児の母として平穏に暮らしている。この三十年、頑張ったねと伝えたい」

 -あまりに過酷な体験だった。

 「妹は家族を目の前で失ったほか、心身ともに弱る中、手加減なしの取材をされて傷ついていた。初めて御巣鷹の尾根に登った時の写真を見ると、落ち着いて慰霊もできないという表情をしている」

 -千春さんにとって御巣鷹の尾根はどんな存在か。

 「亡くなった家族の魂があるような気がする。二、三年に一度、家族を思い、島根県から車を走らせて向かっている」

 -東日本大震災の遺児らに何を伝えられるか。

 「私の場合、誰も気持ちを分かってくれないとふさぎ込み、どうしようもなくなった。周りに打ち解けることが大事なのかもしれない」

 <日航ジャンボ機墜落事故> 1985年8月12日午後6時56分、乗客乗員524人を乗せた羽田発大阪行き日航123便ボーイング747が群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」に墜落し、520人が死亡した。後方に座っていた川上慶子さんら女性4人が翌13日、墜落現場から救出された。87年、当時の運輸省航空事故調査委員会は墜落の約7年前、米ボーイングの作業員が機体後部の圧力隔壁の修理ミスをし、日航、運輸省の担当者が検査時に見逃したことが原因と結論付けた。
(東京新聞)

 不可解な事故から、もうすぐ30年。
 墜落直後の夜間の救出活動を行っていれば、生存者も増えていたのだろう。
 Wikipediaに事故の詳細がある。⇨ 日本航空123便墜落事故

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