そう問いかけると彼は小さく笑った。
「僕はみんなが言うほど、『いい人』ではないんですけどね……(笑)」
2015年、木佐貫洋に二度ほどインタビューをした。一度目は7月の終わり、練習が終わったばかりの千葉・鎌ヶ谷スタジアムで。二度目はすでに現役引退を表明したシーズンオフ、11月半ばのことだった。
取材から目の当たりにした好漢ぶり
最初のインタビューでは、08年の木佐貫による「危険球退場」について話を聞いた。
08年5月7日、東京ドーム――。阪神戦に先発した木佐貫(当時巨人)は3回裏2死走者なしの場面で、打者・金本知憲の後頭部を直撃する危険球を投じて退場処分を受けた。当時の金本は連続試合フルイニング出場記録を更新中で、誰もがこの瞬間に「ついに記録が途絶えたか」と感じていた。しかし、金本はそのまま試合に出場し、記録はこの日も継続されることとなった。
そんな、思い出したくもないであろう場面について話を聞いたのだ。しかも、このときの木佐貫はファームでもなかなか結果を残すことができず、苦しみもがいていたころだった。「危険球退場」という苦い思い出について、現役選手に質問するという非礼を詫びると、木佐貫は笑顔で応えた。
「いえいえ、全然構いません。何でも聞いて下さい」
世間に流布する「木佐貫はいい人」という噂が本当であるとすぐに悟った瞬間だった。それから3カ月強が経過。再び木佐貫に会うと、彼はこんなことを言った。
「実は以前取材をお受けしたとき、すでに現役引退の決意をしていました。黙っていてすみませんでした……」
自身の人生に関わる重要な問題だ。部外者である1インタビュアーに対して、いちいち進退を報告する義務も責任もない。それでも、謝罪の思いを告げずにはいられない。それが木佐貫洋という男なのだとあらためて知った。そして、その好漢ぶりを目の当たりにすると「やはり彼はいい人なのだ」と再認識したのだった。
深々と頭を下げながらの名刺交換
最初のインタビューでは、初対面ということでこちらから名刺を差し出した。ユニホーム姿の木佐貫は、それを静かに両手で受け取り、丁寧に机の上に置いた。野球選手のインタビューにおいて、片手で受け取る者、もらった名刺を放り投げる者は珍しくない。だからこそ、木佐貫の「普通」の態度が強く印象に残った。そして、このとき木佐貫は言った。
「私、木佐貫洋と申します。今、名刺が手元にないので取材後に取ってきます」
こちらは木佐貫のインタビューに赴いているのだ。目の前の長身の痩身男性が木佐貫であることは、その背番号29を見なくても十分、承知していた。それでも彼は、深々と頭を下げながら、自らの名前を名乗った。
そして約束通り、取材終了後には急いでロッカールームに戻って、小走りでインタビュールームに戻ってきた。その手元には自筆のサイン入りの野球カードと、自身が応援大使を務める北海道士別市の名所案内が書かれた名刺があった。これまで何人ものプロ野球選手にインタビューをしてきたけれど、現役選手から名刺をもらったことは初めての経験だった。深々と頭を下げながら名刺交換している姿を見ていて、「やはりこの人は“普通”の感覚を忘れていない人なのだ」と痛感した。
03年のプロ入り以来、15年の引退までの13年間、木佐貫は母校である亜細亜大学の野球部に、春と秋のリーグ戦時に欠かさずに差し入れを行ってきたという。その理由を尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「自分が学生のころ、プロに入った先輩からの差し入れがうれしかったからです」
木佐貫の現役時代、パンチ佐藤氏(元オリックス)ら、先輩プロ選手たちがいつもハンバーガーやドーナツを差し入れしてくれた。それがとてもうれしかった。
「ひとつはプロのOBが自分たちの先輩なんだという誇らしい思い。そしてもう一つはOBが自分たちのことを気にかけていてくれる喜び。自分がうれしかったから、後輩たちにも同じことを感じてほしいと思って差し入れをしていました」
自分がしてもらってうれしいことは、他人にもしてあげたい――。サラリーマンとは比較にならないほどの年俸をもらい、華やかなプロ野球の第一線で活躍しながらも、決してアマチュア時代の感覚を忘れない。そんな木佐貫の「普通さ」を物語るエピソードだった。
自分がしてもらってうれしいことは、他人にもしてあげたい――。サラリーマンとは比較にならないほどの年俸をもらい、華やかなプロ野球の第一線で活躍しながらも、決してアマチュア時代の感覚を忘れない。そんな木佐貫の「普通さ」を物語るエピソードだった。
包み隠さず後輩に伝えてきた悩み
プロ生活において、うまくいかないとき、辛いときにはしばしば母校を訪れた。前述した「危険球退場」時には、投げることが怖くなって、本人曰く「投手生命最大の危機」を迎えた。このときもまた、やはり母校を訪れ、木佐貫は自身の胸の奥に潜む悩みも、恐れも、包み隠さずに後輩たちに話した。
「僕は自分の失敗談、悩んでいることを他人に話すことが好きなんです(笑)。というのも、先輩がそういう風に話してくれたら、その意外な一面を見ることで親近感を覚えるからです。僕自身、もともと自慢するのが好きではないので、自分の悩みを伝えて、それで一人でも何かをキャッチしてくれたらうれしいなという感覚です」
現役引退後、亜細亜大学の後輩たちが木佐貫に内緒でネクタイと寄せ書き色紙をプレゼントしたことがニュースとなった。その背景には、先輩が後輩を愛し続けた13年間の長い積み重ねがあったのだ。
プロ初戦と杉内に投げ勝った試合
13年間におよんだ現役生活において忘れられない登板は2試合ある。ひとつはルーキーイヤーの03年3月30日のプロデビュー戦。そしてもう一つは、13年5月20日、古巣巨人との一戦。前者は極度の緊張状態の中でノックアウトされた苦い思い出。後者は高校時代からのライバル・杉内俊哉に投げ勝ったうれしい思い出。
「せっかく先頭の福留(孝介)さんから三振を奪ったのに、井端(弘和)さんのヒットで気がついたらノックアウトされていたプロデビュー戦。そして、日本ハムに移籍して古巣の巨人と、しかも杉内投手と投げ合って、初めて札幌ドームのお立ち台に上がった交流戦。この2試合は忘れられないですね」
有望選手を発掘する第二の人生
現役を引退した現在、もはや悔しい思いも、うれしい思いも味わうことはできない。15年限りでユニフォームを脱ぎ、16年からは古巣・巨人に戻って新人スカウトとして活動することが決まった。
「こまめに足を運んで、選手を見るという大切な仕事。自分の新人時代を思い出しながら、一生懸命に頑張ります」
入団初年度に新人王を獲得。その後は巨人から、オリックス、そして北海道日本ハムと移籍して13年間のプロ生活をまっとうした。それでも、木佐貫は庶民感覚、一般常識を失うことなく、常に「普通」の感覚を忘れなかった。それは、今後のスカウト活動に大きく役立つはずだ。
「現役時代はヘンに常識的というのか、突き抜けられない自分にもどかしさを感じたこともあります。でも、それが自分の性格だし、それはそれでしょうがないと思っていました。アクが強くなく、良くも悪くも人畜無害だったのかな(笑)」
現役時代から「乗り鉄」として有名な木佐貫洋。有望選手を探すべく、全国の鉄道に乗る機会も増えることだろう。木佐貫洋の第二の人生――自らを「人畜無害」と語る彼がどんな有望選手を発掘するのか? その行く末を温かく見守っていきたい。
(長谷川晶一)
いい人で、寡黙な九州男児。
投手で、長く活躍することは難しいのだろう。
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