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2016年2月29日月曜日

鵜久森淳志 “未完の大砲”鵜久森が豪快弾 古巣と新天地に「恩を返したい」

◇オープン戦 ヤクルト1―5巨人(2016年2月28日 東京ドーム)

 連日、オープン戦や練習試合など、実戦が本格化してきたプロ野球。開幕1軍入りをかけて、白熱したサバイバルが繰り広げられている。そこで、今季に野球人生をかけるスラッガー・鵜久森淳志(ヤクルト=29)についてライターの菊地高弘氏がレポートする。

 長いリーチをしならせた、鵜久森らしい爽快な一発だった。

 28日の巨人とのオープン戦(東京ドーム)、0対5と敗色濃厚の9回表、鵜久森は巨人のリリーフ左腕・戸根千明からレフトスタンド中段に飛び込む本塁打を放った。

 2ボール1ストライクのバッティングカウントから、真ん中高めへのストレートという不用意な一球ではあった。それでも、甘いボールを逃さなかったこと、そして左投手から打ったということに、鵜久森の一発には価値があった。「右の代打の切り札」というヤクルトのウィークポイントに、ガッチリとはまる可能性を感じさせる一打だったからだ。

 今季でプロ12年目。それは「未完の大砲」と言われ続けた歴史でもあった。日本ハムの同期入団であるダルビッシュ有(レンジャーズ)は日本を代表する投手となり、今やメジャーへと働きの場を移している。一方、鵜久森は日本ハムでの11年間でファーム通算84本塁打を放ちながら、一軍では通算6本塁打にとどまっている。

 189センチ、85キロの巨体とツボにはまった際の飛距離、そして周囲から慕われる人格者ぶりに夢は広がった。だが、11年間にわたって結果を残せなかった鵜久森は、昨秋日本ハムから戦力外通告を言い渡される。

 クビを通告された古巣に対して、鵜久森はこんな言葉を口にする。

「あの恩は一生忘れません」

 トライアウトに向けて練習を続けた昨秋、鵜久森は鎌ヶ谷にある日本ハムの練習施設を使用することを許された。さらには練習する選手の人数が少なかったことから、コーチから「練習に一緒に入っていいよ」と誘われ感激したという。鵜久森は言う。

「バッティングピッチャーの方が僕のために投げてくれて、コーチの方もアドバイスをしてくれました。他球団を戦力外になった人に聞いたことがあるんですけど、球団によっては戦力外になったら施設を使わせてくれないところもあるそうなんです。日本ハムは戦力外になった僕にもすごく配慮してくださって、それは本当に感謝しています。これからも忘れることはないです」

 昨年11月10日に静岡・草薙球場で開かれた12球団合同トライアウトでは、7打数2安打とまずまずの結果を残した。ただ、内容は決して良くなかった。投球に対する反応、キレが今ひとつで、フルスイングできない打席も目についた。鵜久森は当時を「実戦を長く離れたことと、体重が減っていて思うような打撃ができなかった」と振り返る。

 それでも、トライアウトから3日後、鵜久森はオファーのあったヤクルトとの契約を交わしていた。今春のヤクルト浦添キャンプ、背番号91のユニフォームに袖を通した鵜久森は、何度も「恩を返したい」という言葉を口にしていた。

「僕にとっては、取ってくれるか取ってくれないかの二択だったので。もう一度プロでやれる環境をいただいたことに恩を感じています。選手じゃなくなれば、プロで勝負する人生は終わる。途切れかけていたところを助けてくれたヤクルトに、今年1年かけて恩返しをしたいんです」

 キャンプでは同じく右のスラッガーである畠山和洋から熱心なアドバイスを受け、名伯楽・杉村繁打撃コーチからも山田哲人を育て上げた多彩なティー打撃による指導を受けた。杉村コーチからは「軸の大切さ」について学んだという。

 そして、「戦える体をキャンプでしっかりつくって、あとは実戦でアピールしたいです」と語っていた矢先に飛び出した、オープン戦での幸先のいい一発。それでも、鵜久森にとっては通過点でしかないだろう。

 古巣と新天地、それぞれの恩義に報いるために、12年目の和製大砲は1打席1打席に勝負をかけていく。

 ◆菊地 高弘(きくち・たかひろ)1982年生まれ、東京都出身。野球専門誌『野球太郎』編集部員を経て、フリーの編集兼ライターに。プレーヤー視点からの取材をモットーとする。近著に「菊地選手」名義の著書『野球部あるある3』(集英社)がある。
(スポニチアネックス)

 未完の大器にかけたのはおもしろい。

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