「東京から国を変える」と、石原慎太郎さんが都知事に就任した1999年の春、都庁詰の記者たちは面食らった。それまで都官僚の内部組織を通じて練り上げられてきた政策決定のプロセスが一変し、石原さんと、彼が連れてきた数人の特別秘書らが多くを差配し始めたからだ。
局長クラスの幹部に裏付けを取り、都が新たな環境政策を準備しているという記事を書いた。すると石原さんの懐刀だった特別秘書の浜渦武生(はまうず・たけお)氏(後に副知事)から「私はこれを認めていない。わび状を書け」と迫られた。突然のトップダウン方式は、日本の「官邸主導」、あるいは米国のトランプ政権を見た今なら、それほど驚かないかもしれない。しかしこのときは、昨日までの常識とルールが全く通用しなくなったことを痛感させられた。
それならばと、キャップから指示されたのが、トップへのじか当たりである。毎晩、都内の石原邸へ先回りして帰宅を待つ。何度も追い返されたが、石原さんは少しずつヒントをくれるようになった。
その年の11月のことだ。「だから役人に任せると、ろくなことにならない」となにやら怒っている。建設中だった都営地下鉄12号線の正式名称を決める選考委員会が、一般から募集した案を基に「東京環状線」と決めたことが気に入らないという。12号線はJR山手線のような完全な環状ではなく「6」の字形。「なんでこれが『環状線』なんだ」と語気を強めつつ、石原さんは自分の意中の名前をこっそり教えてくれた。それが今の「大江戸線」である。選考委にはプロ野球セ・リーグの会長や著名な漫画家らが名を連ねていた。一夜で結論をひっくり返され右往左往の職員たちには同情を禁じ得なかった。
「なにか大きなことをやろうぜ」。機嫌のいいときは応接間に招き入れてくれ、ウイスキーをなめながら、そう言うのが常だった。戦後の日本と日本人への痛烈な批判もこの人ならではで、「骨の髄までアメリカに飼い慣らされ、自立していない」と嘆くこともしばしばだった。いわゆる進歩的文化人や護憲論者、観念的平和論などに対しては特に容赦なかった。
世間をあっと言わせた銀行税導入、ディーゼル車規制、横田基地の軍民共用化、そして沖縄県・尖閣諸島の買収などの施策も、見方を変えれば、力の強い者や自分たちの立場を脅かすものへの敵がい心の表れであったともいえる。
これらの政策は必ずしも華々しく実を結んだとは言えないが、石原さんにとっては「国に先んじた」という点が大事だった。知事就任時から、ゆくゆくは「石原新党」を結成し国政に打って出るのではないかといわれ、本人もその気たっぷりだったと思う。しかし2001年4月に小泉純一郎氏が首相になり、政権が急浮上すると、機運はしぼんでいった。
作家としても時代の申し子だった。56年に芥川賞を受賞した「太陽の季節」は、高度経済成長の扉を開けた。弟の石原裕次郎さんや慕っていた三島由紀夫氏の思い出話をしながら「ライジングサンの時代だったなあ」とよく懐かしんだ。豊かさへの憧れと夏の海のような明るさ。右肩上がりの時代に石原兄弟を重ねた人も多かったはずだ。
時代はうつり、バブル経済とその崩壊を経験し、やがて日本は自信を喪失した。首都のマッチョなリーダーとして現れた石原さんは、最後まで「日本人よ、このままでいいのか」と挑発し続けた。都知事を退いた後、再び国政に身を転じたのは、自分より早く老いていきそうなこの国の姿に我慢ならなかったからだろう。
誇りある威勢のいい日本人をむねとし、その自意識が「三国人」発言や女性蔑視発言などを生み、強い批判も浴びた。今や世界の一方の潮流となりつつある権威主義やポピュリズム(大衆迎合主義)の影を石原さんに見ることもできるだろう。それを熱狂的に受け入れた時代と社会の素顔もまた、私たちは記憶せねばならない。【清水忠彦】
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コロナ過で元気のない今の状況に比べ、良き時代に感じます。
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