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2015年9月30日水曜日

優しくも貫き通した「頑固」な一面 木佐貫洋が歩んだ野球人生

優しく、礼儀正しく、鉄道好き…ファンに愛された男が描いた野球人生
 日本ハム・木佐貫洋投手が現役引退を明かした。木佐貫は鹿児島・川内高、亜細亜大から2002年ドラフト自由獲得枠で巨人に入団。150キロの直球と落差のあるフォークボール、ひょうひょうと投げるピッチングで新人時代の03年に10勝7敗で新人王を獲得した。07年に12勝(9敗)を挙げた。

 ケガなどもあり、登板機会が減ると2010年からオリックスに移籍、先発ローテに入るなど復活。13年1月に糸井、八木との複数トレードで赤田、大引とともに日本ハムに入団。若い投手の模範になるなど、プロ通算214試合登板で、62勝72敗10セーブ、防御率3・76という成績を収めた。

 周囲に気遣いができる、とても優しい男。礼儀も正しくユニホームを着ていなければ、サラリーマンにも見えた。趣味も多彩で鉄道が好き。休日には「乗り鉄」で楽しんだ。ファンにもとても優しく会話をするなど、愛される野球選手だった。

 ただ、野球に関しては頑固だった。

進学でも貫いた意志、「地元の仲間と鹿児島実業を倒すために」
 中学時代。鹿児島で育った木佐貫は県下では有名な中学生。野球の強豪高校はエースになる存在と見て、熱烈なオファーを出した。当時、鹿児島県で3本の指に入る強豪・鹿児島実業も関係者を通じて勧誘をした。しかし、木佐貫の心は揺れることはなかった。

「鹿児島実業にはいきません。僕は地元で、地元の仲間と鹿児島実業を倒すために野球をします」

 当時、伝え聞いた鹿児島実業の久保克之監督を驚かせた。そして木佐貫は地元の川内高校に進学する。

 新チームでエースになると、秘めていた思いの通り、鹿児島実業を秋や春の鹿児島大会で撃破する。相手のエースには、のちにプロで活躍する杉内俊哉(巨人)がいた。

 迎えた1998年の3年夏。両チームは順当に勝ち上がり、決勝戦で顔を合わせた。木佐貫、杉内の両先発。ハイレベルな戦いになったが、「1度も勝っていない相手だったので、負けるわけにはいかなかった」と杉内の悔しさからくる勝利への執念に屈し、1-3で敗れた。2人はこの戦いがあったから今があると、プロに入っても言い続けているほど、記憶に残る戦いだった。
本人は自覚なしも…「木佐貫を交代させるのは一苦労」
 木佐貫は負けた。その悔しさから、練習が厳しい亜細亜大学の門をたたき、成長。甲子園に出場こそしていないが、松坂世代を代表するピッチャーになった。

 頑固な性格からか、野球の神様はリベンジの機会を用意してくれた。日本ハム移籍後の2013年5月20日の巨人との交流戦。木佐貫VS杉内の先発対決が実現し、7回1失点で勝利。あの夏の借りを返した。「(川内)高校の野球部みんなが、応援してくれていました」とバックで同級生たちが守っている気分で“鹿児島実業”に勝った思いだった。

 プロに入ってから、優しい性格が災いし、なかなか勝ちきれないなどという声も上がったが、試合中の木佐貫も頑固だった。ある投手コーチは「木佐貫を交代させるのは一苦労です」と明かす。ピンチを作ったところで、交代をコーチが告げにいくと、「嫌です」と断られることもあった。任されたマウンドを必死に守ろうとしていたのだった。

 頑固な性格という自覚はない。「僕が頑固ですか……そうですか?娘が魚を食べないときに、ひたすら食べるまでずっと目の前で僕が箸を口の前に持っているということがあるくらいじゃないですか」と気さくに笑う。すべてはその家族のため、愛した野球のファンのため、貫き通した「頑固」だったのかもしれない。

フルカウント編集部●文 text by Full-Count

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